レス・ドリンク時代に風穴を。キリンが切り拓くクラフトビールの未来
少量多品種で個性豊かな味わいや香りが楽しめることから、飲食店で目にすることも多くなってきた「クラフトビール」。その立役者となったのが、キリンビール株式会社が開発したクラフトビール専用のディスペンサー「Tap Marché(タップ・マルシェ)」です。1台で4種のビールを提供できる使い勝手の良さと、ビールの品質維持に最適化された3ℓの専用ビールボトルが飲食店の支持を集め、2017年のサービス開始から2年余りで導入店舗は13,000店を突破(2019年末時点)。レス・ドリンク時代のイノベーションとして、注目を集めています。今回は、タップ・マルシェの立ち上げ時からプロジェクトに携わってきた事業創造部主務の石井綾子さんにお話しを伺います。
profile
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キリンビール株式会社
石井 綾子(いしい あやこ)
2005年、キリンビール㈱に入社。工場での研修を経て東京支社に配属、担当エリアの飲食店様や酒販店様を訪問する「エリア営業」に。その後、スーパーやドラッグストアなどの量販店様を担当する「量販営業」、全国チェーンの飲食店様を担当する「業務用営業」と12年の営業経験を経て現場所へ。現在は、クラフトビールの裾野を広げるため日々奔走している。
プロジェクトの始まりは1枚のメモ
―― 今日はキリンビールさんがとても意欲的なプロジェクトをされていると耳にし、お話しを聞きに伺いました。なぜ今クラフトビールに着目されたのでしょうか?
若い方を中心にお酒離れが進んでいる「レス・ドリンク時代」と呼ばれる最中にあって、ビールのおいしさや楽しみ方に気づけていないお客様にアプローチし、新規開拓することはとても重要です。クラフトビールは、日本でこそ、まだビール市場全体の1%に満たない小さなシェアですが、クラフトビール先進国などアメリカなどでは10%以上のシェアを抱えており、伸びしろのあるジャンルだと考えています。弊社としては、2014年に会社全体でクラフトビールに力を入れていきましょうと方針を定め、何か面白いこと、新しいことはできないか、と模索してきました。そのような経緯のなかで、当時の担当者が、「クラフトビールを文化として広めていきたい!」という思いを書いたメモのような企画書を会議に出したのです。その企画書が、タップ・マルシェの草案でした。
―― メモ書きのような企画書からプロジェクトがはじまるなんて夢がありますね。まるでベンチャー企業のようなフットワークの軽さです。
そうですね。でもこれは、弊社としても珍しいケースかもしません。社として、「クラフトビールに力を入れていこう」という意思統一ができていたこともあって、スムーズに話が進んでいったのです。
その企画書が会議を通過するとすぐにプロジェクトチームが発足し、ひと部屋あてがわれてゼロからタップ・マルシェの開発がはじまりました。その過程で、今の市場においてクラフトビールが抱えている課題は何なのか、どのようなディスペンサーであれば飲食店様は導入してくださるのか、そのためには何タップが最適で、ビールを貯蔵する容器はどんなものがいいのか、といったことを実際にお店の方々に聞き込みをしながら検討していきました。
そのような聞き込みをしていると、クラフトビールの多くは、既存の10~30ℓ樽だとなかなか消化出来ず、鮮度が落ちていってしまうことなどがわかってきたので、タップ・マルシェのボトルは3ℓと小さなものにすることにしました。もともと、弊社のパッケージ研究所が二酸化炭素を通さないようにするペットボトルのコーティング技術を持っていたので、タップ・マルシェにもそのペットボトル容器を採用しているんですよ。
―― 飲食店の生の声を吸い上げた結果、このようなつくりになったということですね。しかし、なぜ5ℓでも6ℓでもなく、一挙に3ℓまで減らしたのでしょうか? ビール樽としては、かなり思い切った判断のようにも思えます。
これも聞き込みの過程でわかったことなのですが、多くのお店ではクラフトビールを250mℓのグラスで提供しているのです。通常のビールと異なり、いくつか注文して飲み比べる楽しさがあるのがクラフトビールの醍醐味でもあるので、500mlだと多すぎるのですね。そこで、250mℓでの提供を前提とし、一週間で計12杯分くらい出せる量が最適なのではと考えて、3ℓに決めました。ここは、市場の事実と多少の勘です(笑)。
―― タップ・マルシェは2017年のサービス開始から、わずか2年余りで、すでに13000店舗の飲食店に導入されているそうですね。これほどまで支持されているのはなぜだと思われますか?
これまで、飲食店がサーバー(いわゆる生ビール)でクラフトビールを提供しようとすると、複数タップを用意しなければならず、多額の設備投資をしてディスペンサーをそろえる必要がありました。その課題を解決するために、弊社ではタップ・マルシェを無償でお貸出ししている(※2020年3月現在)ので、実質初期投資はほとんどかけずにクラフトビールを提供できます。また、先ほどお話しした通り、小容量のペットボトルを採用しているのでビールの鮮度も従来以上に保つことができます。これまでは飲食店様で個々に直接ブルワリーと商流を開拓し、クラフトビールをお店に卸してもらわなければなりませんでしたが、タップ・マルシェでは10を超えるブルワリーさんとキリンが連携し、商品をご提供しているのでそれらの手間もありません。
おかげさまで、飲食店の方に営業へうかがうと、「これはイノベーションですね!」と導入を決めてくださることも少なくありません。
―― タップ・マルシェと連携するブルワリーはどのような基準で決めているのでしょうか?
選べる楽しさがクラフトビールの一番の魅力なので、まずは品質と味を第一に考えています。そして何よりも大切なのは、タップ・マルシェの理念に賛同してくださるかどうか、ということです。ブルワリーさんのもとへ直接足を運び、しっかりと私たちの考えをお伝えするところから、話し合いを始めるようにしています。
クラフトビールの可能性
―― 実際にタップ・マルシェを導入しているのは、どのようなお店なのでしょうか?
当初はおしゃれなカフェレストランなど、若者が集まりそうなお店が導入してくださるのでは、と想定していたのですが、実際に営業をかけてみると、意外にも居酒屋さんや焼き鳥屋さんといったお店も多く、映画館や温浴施設など、幅広い業態でも受け入れてくださっています。ここまで広く受け入れていただけたのは、クラフトビールが「どこのお店でも飲めて当たり前なビール」という立ち位置に定着しつつあるからなのでは、と思います。
―― すでに市場には、クラフトビールが広がる土壌ができていたということですね。
そうですね。94年に酒税法が改正され、大手メーカーしか作れなかったビールを年間製造量が少ないブルワリーでも作れるようになりました。その時に国内の地ビールがどっと増えたんです。そこから地ビールブームが到来し、99年ごろに終焉します。地ビールはお土産物としての購入に限られていたり、高すぎたり、といったところがネックになって一時的なブームの域を出なかったんですね。しかし、現在は地ビールブーム時のブルワリー数を2017年の時点で超えているので、すでに一時的なブームの域を出たのでは、という印象を受けています。
―― なるほど。タップ・マルシェを導入したお店からはどのような反応がありましたか?
クラフトビールの飲み比べとからあげセットで1500円という価格設定をするお店があったり、それぞれのビールに合うおつまみをお店で工夫して提供していたりと、私たちのほうが教えられることがとても多いです。インスタグラムのハッシュタグで、タップ・マルシェを導入している飲食店様の生の声を集約させていただいているのですが、中には「クラフトビールは焼き鳥のタレに合うので好評ですよ」という意外な反応もありました。少量多品種のクラフトビールだからこそできる多様なオススメの仕方や、店員さんとお客さまのコミュニケーションの活性化にもつながっているようで、とてもうれしく思っています。
―― 大手というのは、商品をたくさんつくって大きな市場に向けて売る、というビジネスモデルがスタンダードかと思いますが、御社はインスタグラムを駆使したり、個別のニーズを細やかに救い上げていらっしゃるのですね。
おっしゃる通りで、これまでのビール業界は、大量少品種を効率的に売っていく、ということを軸足にやってきました。そのような文脈からすると、タップ・マルシェは真逆のことをやっているので、それは難しい部分でもあります。少量多品種の作り分け、売り分け、運び分けへの1からの挑戦なので、マーケティングもこれまでのようにテレビCMを大きく打ち出すというのとは違うだろうと思いますし。
―― キリンのような大手メーカーと職人気質のブルワリーでは、なかなか交渉も難航しがちなのでは、という勝手な憶測をしてしまうのですが。
みなさま地ビールブームの終焉を乗り越えてきた方々なので、やるべきことと絶対にやってはいけないことを明確にお持ちのブルワリーさんが多いですし、その点では個々に矜持をお持ちになっている方が多いように感じます。しかし、同時にタップ・マルシェをとても好意的に受け入れてくださっており、「ひとつのサーバーで4つのビールを飲み比べができるなんてすごいね」という声も多いです。
―― 大手と中小のブルワリーがクラフトビールを介して混ざり合い、共にビール業界を盛り上げようとしている構図はとても美しいですね。しかし、これまでキリンがつくってきた商品とは異なり、他社のビールも取り扱うというのは、難しさもあるのではないでしょか?
タップ・マルシェで提供させていただいているクラフトビールのうち、半数以上はキリンと資本関係のないブルワリーさんの商品ですので、それらのビールを売り込む際の営業スタイルにも変革が起きています。自社の商品ではないものをお客様に営業するわけですからね。しかし、社内の若い営業スタッフの中には、「タップ・マルシェは個性的な商品が多いので営業のやりがいがあります」と言ってくれる者もいて心強いです。
タイの奥地で、お酒の力を知る
―― ここで少し、石井さんご自身のお話しも聞かせてください。キリンビールは、その名の通りビールを中心としたお酒の会社なわけですが、石井さんはなぜこの業界で働こうと思われたのでしょうか?
私は群馬の田舎出身なので親戚の集まりでは、大人はみんなでお酒を飲むという環境で過ごしてきました。常にお酒が身近なものとしてあったんです。近所にキリンビールの工場があったこともあり、「ビールといえばキリンビール」という印象が強く、自然な流れでこの会社の面接を受けました。
―― 昔からキリンビールに親しみがあったのですね。
はい。それから、大学時代にはバックパッカーをやっていたのですが、訪れた国でお酒の力を実感したことがあって。
―― それはどこですか?
タイ北部にある山岳民族が暮らす村です。私はその村のご家庭にホームステイをしていて、当時たまたま村で知り合ったドイツ人のバックパッカーも同じ家に泊まっていたんですね。そこである日、私とそのドイツ人がとても険悪になってしまって、見かねた村の方々が年に一度のお祭りの日にしか開けないどぶろくを開けて、私たちに振舞ってくれたんです。しかも民族衣装まで着て。
―― 村人をそこまで動かす険悪さって……一体何があってそのドイツ人と険悪になったんですか?
そうですよね(笑)。私たちが泊まっていたご家庭では、毎朝お母さんが早起きして火を起こし、朝ごはんを用意してくれていたんです。でも、そのドイツ人はいつまで経っても部屋から起きてこなくて、私が彼に怒ってしまったんですね。それでものすごく険悪に。
―― なるほど。それで一年に一度しか開けないどぶろくを。
はい(笑)。でも、そのときに一緒にお酒を飲んで、お互いに胸の内を明かしあったら、仲直りとまではいかないまでも、険悪なムードはなくなったんです。そこでお酒の力ってこんなにすごいのか、と改めて感じました。
―― 結局そのドイツ人はなぜ起きてこなかったんですか?
彼にも言い分はあって、「俺は毎朝パンかビスケットを食べているんだ」と。「なのに、アジアに来てから毎日米ばかりで胃もたれがすごいんだ」と。そういうことを言っていました。
―― なるほど(笑)。
そんなこともあってキリンビールに入社し、12年間営業の仕事を担当してから、今の事業創造部に異動してタップ・マルシェに携わっています。
すべての人の根源になるものだから、誠実でいたい
―― 石井さんは学生時代から地続きで今のお仕事につながっているような印象を受けますね。食業界に飛び込みたいと考えている若者に、何かアドバイスはありますか?
自分自身、こうつながっていくだろうなと考えて行動してきたわけではなく、就職活動の時期になってはじめてこれまでの自分の行動を振り返り、自分の好きなモノを整理していったんです。
自分がやってきたことを振り返って整理するタイミングが必ず来るはずなので、今は自分のやりたいことにどんどんチャレンジして、その記憶を定期的に整理していくのが大切なのでは、と思います。自分の経験を振り返ると、嫌々やってきたことよりも、自分がやりたくてチャレンジしたことのほうが多くのモノを得ているなと思うので、自分の興味や関心を大事にしてもらいたいなと思います。
―― 石井さんご自身は、どんな人が新たな仲間として一緒に働いてくれるとうれしいな、と思われますか?
食業界って他の業界に比べると関わるお客様がとても多い業界だと思うんです。たとえば化粧品業界であれば、お化粧しない人は当然ながら化粧品は買いませんし、ゲーム業界であればそもそもゲームをしない人に商品を売るのはなかなか難しいですよね。ですが、食事をとらない人はいないので、食業界はすべての人の日常に携わる責任がありますし、とてもたくさんの人に貢献できる業界ですよね。すべての人の根源になるものであるからこそ、誠実に世のため人のためになる行為を積み重ねていくべき業界なのだろうと思っています。ですので、私自身もそうあるべきだと思いますし、これから食業界に携わる方もそうであってほしいなと思います。
以前同業者の方とお話しをしたときに、食業界に携わる人たちって本当にいい人ばかりだよね、ということを話したことがあったんです。良い原材料を使って、誠意を込めて加工し、責任をもって安全なものを提供する、という。そういう姿勢の方が増えていくとうれしいですね。
―― 素敵なお話しをありがとうございました。最後に、石井さんがこのお仕事をされていて、もっともやりがいを感じる瞬間はどんなときですか?
今はゼロから1を作り出す段階ではなく、1から10、100とサービスを広げていく段階だと感じています。しかし、ゼロだったときから関わっている立場から言わせていただくと、進化することを止めたくないなとは考えています。タップ・マルシェは新しくて斬新なサービスだね、と当初は言われていましたが、そこで終わってはいけない。今後も新たなアイデアはスピーディーに実行していき、変わり続けていかなければお客様にも社内の人間にも飽きられてしまうだろうと思います。それはマーケティング面での進化だったり、インスタグラムで情報を統合する試みだったり、さまざまです。そういった新たな挑戦の種を見つけて、しっかりと育てていくことが今のやりがいかなと感じています。
たとえ今は業界内のわずかな火種にすぎないとしても、その火種をしっかりと守り、薪をくべて、大きな炎へと育てることができれば、それはいずれ大きなムーブメントとなる。タップ・マルシェにかける石井さんたちの情熱の背景には、そんな信念があるように感じられます。業態の垣根を越えて盛り上がりつつあるクラフトビールブームがこの先私たちにどのような食の楽しみを提供してくれるのか、石井さんたちのさらなる飛躍に、期待が膨らみます。
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