江戸の農村を通して、地域づくりを読み解く
江戸時代の農民と言えば、子沢山でボロをまとった貧しい時代劇の姿が目に浮かんでしまいます。豊臣秀吉による「刀狩」によって武装解除され、「支配される無力なもの」として藩による過酷な年貢を背負わされ、悪代官の餌食になるといった、ひたすら搾取されまくるイメージの存在です。しかし、よく考えてみると、このイメージはわたしのような歴史の素人から見てもいろいろつじつまがあわないのです。そんなステレオタイプの農民像を根底から覆してくれる一冊をご紹介します。
江戸時代の農民は、生産力に裏打ちされた合理的経済人?
『百姓たちの幕末維新』著・渡辺尚志(草思社、2015年)
各藩のGDPを測定するものはコメであり、当時の通貨はいわばコメとの兌換を保証することで成立していました。したがって、農業は各藩の主要産業であるばかりでなく、江戸時代の経済活動そのものを回すための潤滑油であり生命線でした。そのような立ち位置の農業従事者が、漫然と搾取しまくられる存在であったとはどうも呑み込めない。本書は、江戸末期から明治初期にかけて農民が起こした種々の訴訟を主に紹介していき、社会の動力源であるダイナミックな農民の姿を生き生きと描きだしています。訴訟は、幕藩体制を回す歯車の軋みが生み出す産物であり、農民と武士社会との齟齬を反映しています。訴訟に関しては詳細な資料が残されており、これらを通して見えてくる農民は、生産力に裏打ちされた合理的経済人であり、藩の枠を超えた今でいうところのグローバルな視点で、どのような農業社会を作り上げようとしていたのかが垣間見ることができ、現代の苦悩する日本の農業にどのように向かい合うべきかへのヒントがあるように思えるのです。
江戸は当時の世界で最大の人口を擁する大都市で、その住民の多くは職人であったことはよく知られています。職人たちは、一日に間食をよくとって活力としていました。旺盛な職人たちの食欲をみたすべく江戸の街角には屋台が並び、衛生面と屋台の高い回転率を支える割りばしが考案されました。つまり、食料生産に従事していない人々が住む江戸の食欲を支えるに十分な量の食料が、外部から供給される状態が江戸の初期からあったわけです。戦乱の世が徳川によって終焉を迎えてから突然食料供給が急増したわけもなく、戦国時代の大坂には既にかなりの取引規模を誇る米市場が立っていたことが明確に示すように、戦国大名による富国強兵政策も手伝って農業生産性はそれになりに高く、農民たちは当時の日本の基幹産業の担い手として相当の勢力をもっていたはずです。一方、刀狩による武装解除というのも真相とは違って、実は農民たちは明治まで大量の武器を所持していました(参考図書:『刀狩-武器を封印した民衆』著・藤木久志、岩波新書)。
本書は、農民たちの起こした幕府や領主に対する訴訟の記録などを丁寧にフォローして、農村の状況や直面していた課題などに焦点を当てることで、「考える」農民たちの姿を描き出しています。「農民」であるためにはみたすべき条件があり、単に農村で農耕に携わっていれば「農民」になれるというわけではない、という史実はまさに基幹産業のプロとしての自負と立ち位置を示しています。農民たちは、農業技術のみならず土木技術や航海技術を備え、かつ軍事力を持った完全な対抗勢力として武士階級との緊張関係を保っていたのです。
特に注目すべきは、「農民」は藩の直接的な支配の外に存在し、幕藩体制とは異なる論理に基づき、個人としてもまたコミュニティとしても自律的にふるまっていたという点です。いわばコメ兌換制ともいえる当時の貨幣経済をまわす担い手として、大坂のコメ取引の場にコメを配送する物流産業も農民が担っており、その活動は藩体制の枠組みを大きく超えていました。その上、治水など、農業生産性を向上させるために藩境を超えて、土地や環境を保全させる必要があります。そのため、「郡中議定」と呼ばれる複数の農村に帰属する農民による合議体が形成され、異なる藩にまたがったエリアをカバーするのです。藩は独自の藩札を持ち外との直接流通は不自由であったことや、藩外に旅するにも厳しい制約があったことを思うと、領主の違いを超えて農民たちが合議の上自主的にルールを取り決め、それを遵守したことは非常に興味深いです。借金のために農地を手放したりすることを防いだり、水利用や農地保全のための連係を通じて、武家社会や商人を含む対抗勢力との緊張関係の中で結ばれた地域自治なのです。異なる利害を持つ農村や個々の農民が、多くの努力を投じて「地域づくり」を行い、合議体を結集して共通の課題に立ち向かおうとしていた姿は、持続可能性の重大課題に直面する現代の「地域」に大いに参考となるはずです。
食マネジメント学部 教授 西村 直子
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