世界中で愛されるナポリのトマトが抱える課題
世界中で愛され、日本でも人気の高いイタリアントマト「サン・マルツァーノ・トマト」。DOP(保護原産地呼称)によって守られてはいますが、残念ながら偽物が多いという課題を抱えています。本物のサン・マルツァーノを見分ける方法はあるのでしょうか?
profile
-
立命館大学食マネジメント学部 教授
石田 雅芳(いしだ まさよし)
専門はイタリア食文化。スローフード協会イタリア本部の日本担当官を長年務め、持続性のある食の喜びをめざした協会哲学を広める。好きな食べ物は福島のラーメン。
待ちに待ったサン・マルツァーノ・トマトの収穫
8月に入ってナポリ近郊からサン・マルツァーノ・トマトの収穫が始まったとの便りが届きました。ナスのように細長く、皮が薄く、甘くて香り高い果肉を持ち、ソースにするのに適したトマト。日本でもイタリア産トマト缶によく描かれているあのトマトです。純正ナポリピザにもこのトマトを使うことが決められています。サン・マルツァーノ・トマトの誕生の地である、ナポリ近郊のアグロ・ノチェリーノ・サルネーゼ地域では、毎年収穫を前にして国際イベント「サン・マルツァーノ・デイ」が行われ、世界中のファンやシェフ、著名人がこの地を訪れます。ナポリ音楽のバンドが演奏し、ピザが焼かれ、近くのサンタ・マリア・デッラ・フォーチェ教会からはフランチェスコ会の神父が、トマトの収穫を祝福しにやってきます。
地域特産品を守るDOP
この品種はDOP(保護原産地呼称)によって守られています。欧州連合には農産品の地理的表示を保護する制度がいくつかありますが、特にDOPは製品名を誤用や盗用から守るための制度として世界的に認識されており、食品の伝統と価値を国際レベルで保証しています。他にはIGPやSTGの認証がありますが、DOPは「特定の地域で栽培・飼育・収穫された農産物が加工を経て製品となる際に、全ての工程がその特定地域で行われた」ものを認証するもので、最もハードルが高いものになっています。その中にはパルマの生ハムやパルミジャーノ・チーズ、バルサミコ酢など、日本でもすでにおなじみのものがあります。イタリアは最も認証が多い国で、3つのカテゴリーに300もの製品が選ばれています。黄色と赤の丸いマークがついたDOP製品は、日本でも輸入食材のお店などでおなじみです。純正のサン・マルツァーノDOPが入ったトマトの缶詰は、日本では主に商業用に輸入されていますが、一般に販売されているものは、通常のトマト缶の数倍の値段がついていることがあります。
サン・マルツァーノの歴史
サン・マルツァーノは18世紀にペルーからナポリ王に贈呈されたものが始まりと言われ、まさにトマトの故郷から直接もたらされたもの。ヴェスヴィオ山の火山灰質の大地でよく育つことがわかり、生産されたのが現在のアグロ・ノチェリーノ・サルネーゼ地域でした。ここで20世紀のはじめに、ピエモンテ州の実業家フランチェスコ・チリオが、世界初のトマト缶を生産しました。チリオは最新の缶詰技術をこの地にもたらし、トマトの生産は地元のルッジエーリ兄弟に任されました。4代目になる現在でも100以上の生産者を会員とする協同組合を組織し、昔ながらの栽培スタイルで育てられ、手摘みの収穫が行われています。
10年ほど前に訪問した時は、畑を任せられているヴィンチェンツォが、満面の笑顔で迎えてくれました。休憩所の周りに生えている桑の木からもぎ取った紫色の実を頬張りながら、流暢なナポリ方言で栽培サイクルの説明をしてくれました。ヴェスヴィオ山を仰ぎ見るサン・マルツァーノの畑は、ナポリの太陽で日焼けした幸福な農民たちの牧歌的な世界。愉快なインタビューが終わってすっかり上機嫌のヴィンチェンツォは、帰り間際にビニール袋いっぱいに入った桑の実を持たせてくれました。それと何かが入った古びたビニール袋。開けてみてびっくり。そこにはあの貴重なサン・マルツァーノの種が入っていました。さらに納屋から発泡スチロールに入ったサン・マルツァーノの苗を30本ほど持ってきて、「トマト欲しいって言ってただろ?」とのこと。直前の協同組合のミーティングで、「いくつも有名企業がやってきて、いくらでも出すから種を分けてくれというのを断った」と聞かされていたので、すっかり拍子抜けしてしまいました。
本物のサン・マルツァーノを見分けるには?
サン・マルツァーノは世界中で愛されるポピュラーなトマトですが、残念ながら最も偽物が多いDOPとも言われます。2010年にはイタリアからアメリカ市場に向けて輸出されようとしていた1000トンの偽サン・マルツァーノ・トマトが財務警察に押収されました。アメリカでは自国製のサン・マルツァーノが日常的に出回っており、消費者の判断にのみ委ねられています。そもそもサン・マルツァーノが世界中の食卓に上ることになったのは、大規模生産に適したハイブリッド種子が開発されたことにもあります。手のかかる本当のサン・マルツァーノは価格が落ち込み、さらには病害のために絶滅の危機に瀕してしまいました。スローフード協会が2000年にサン・マルツァーノを絶滅危惧食材とした際、ほとんどのイタリア人は、スーパーで毎日売られているいつものトマトを、どうして保護しなくてはならないのか理解できなかったほどです。
中国産のトマトが混ぜられたサン・マルツァーノ、ベルギー産のサン・マルツァーノ、DOPマークがついた巧妙なコピー商品など、もはや一般消費者が本物を見分けるのは難しくなっているのが現状です。イタリア商工会議所の試算によると、トマトだけの問題ではなく「ITALIAN SOUNDING (イタリア製品っぽい)」製品市場は、アメリカ、メキシコ、カナダだけでも540億ユーロにも及ぶとのこと。私たちは見かけに騙されずに、本当のイタリア製品を味で識別できるのでしょうか? それともイタリアっぽいもので満足してしまうのでしょうか? スローフード協会の食育関係者によると、味覚を判断する能力は、それぞれの味覚体験の蓄積にかかっているとのこと。まずは本物のサン・マルツァーノの味を体験しにナポリピザでもいかがでしょう。
他にもこんな記事がよまれています!
-
Column
2018.02.08
フードサービスから働き方改革を考える
青山学院大学
野中 朋美 -
Book
2018.04.20
ステーキからおいしさを読み解く
-
Column
2020.11.11
アクション・バイアス ~変革型パティシエの探求~
立命館大学食マネジメント学部
金井 壽宏 -
Interview
2017.05.02
歴史があるから新しいことができる。京の老舗和菓子店の挑戦
株式会社聖護院八ッ橋総本店
鈴鹿 可奈子 -
Interview
2017.04.10
料理雑誌・編集長が語る、食業界の「作り手」と「伝え手」の思い
株式会社料理通信
君島 佐和子 -
Column
2019.01.08
「食」から振り返る平成の30年(前編)
立命館大学食マネジメント学部
南 直人